自己実現するのは誰のため?
春らしい気候になってきました。
「卒業、修業」
そして、
「入学、進級」
と、このシーズンは、とても慌ただしいですね。
この機に、サッカーもこれで一区切り(引退)・・・
で、次のステージに進んでいく人もいます。
私の本音は、
サッカーをたとえどのような形であれ、
ずっと続けて欲しいのですが・・・
如何せん、それぞれ本人が決めること(人生)ですから
仕方がありませんね。
この引退する子どもに
「卒業記念」
ということで・・・
また一方、
「入学の祝い」
にといった理由で・・・
親が子どもに対して、
プレゼントを贈ったり
また
食事会を開いたり
・・・
世間の多くは、そのようなことを行うようです。
「冷めた意見」と言われそうですが、
ただ、私は“それ”をする気持ちにはなれません。
なぜなら・・・
サッカーをして
「自分を磨き」
『自己実現を果たす』
のは、“子ども自身”だからです。
サッカーは競技人口が多い反面、
競技を突き詰めていきますと、
そのピラミッドの頂点は、
かなり狭き門であることは間違いありません。
上を目指せば目指すほど、大変なことも多々あるでしょう。
しかし・・・
それも子ども(本人)が選んだことで、
そのサッカーが好きだからこそ
がんばれる(がんばれた)はずです。
ねぎらいの言葉
や
努力に対して正当な評価
は、必要かと思いますが・・・
『(記念の)祝い』
などは、本当に必要でしょうか?
話は少し変わりますが、
「お疲れさま」
という言葉があります。
サッカーの活動を終えた後も、
ついつい口にしてしまいそうですが・・・
プレーヤー(子ども)は、
サッカーという“労役”を課せられたわけでは、決してありません。
自分の好きなことをやっているわけです。
無理やり嫌なことをさせられ、
肉体的、精神的に疲弊しているわけではありません。
「お疲れ・・・」にも、
何か “違和感”を覚えます。
話題を、本題に戻します。
実は、私も・・・
過去に親に言われたことがあります。
「大学に合格したら、高級料理店に連れて行ってやる」
・・・
今になって考えますと、大きな疑問を感じます。
「大学に進学する『目的』は何でしょうか?」
専門的な学識を“高める”ため
興味のある分野の学問を“学ぶ”ため
つまり、
さらに上のカテゴリーに進み、人生の選択肢を広げるため
です。
進学することは、
『自分のため』であるはずです。
ただ、それに対して(例えば入試のための)
『諸費用や準備に要する経費』は、
子ども自身が負担できるものではありません。
そして、子どもが
行き詰った時
進路に悩む時
『心理的なサポート』
『(人生の先輩としての)助言』
その部分は、親が子どもにしてあげなくてはいけない部分です。
しかし、親が関わるのは、“それだけ”のはずで、
子どもは親のために、親の希望する大学に進むわけではありません。
ただ一方で、
一般的に偏差値の高い、有名な大学に進学して
また、
強豪チーム、プロチームに入団して
喜ばない親はいません。
しかし、
そこ(その学校、そのチーム)に進んだのは、
子どもの意志であり
子どもの努力の成果
のはずです。
実は、『親とは直接には関係がない』ことなのです。
但し、子どもは勝手に大きくなれるわけではありません。
前述しました通り、
親の援助、また適切な助言は必要不可欠です。
ただ、
合格した
勝った
賞を獲った
・・・
それは、子どもの努力の賜物なのです。
それをネタに、
“親”が「舞い上がっている」ようでは、
正に、本末転倒です。
「子どもの夢のため」
と言いながら・・・
実は、
親の希望を子どもに被せ、
その子どもの結果に有頂天になっているだけ、
なのかもしれません。
先に挙げた、
合格
優勝
入賞
さらには、わが子が有力校や有名チームに入ることは、
ステータスが高い(誇らしい)ことにもなります。
だから親は「子どものため」と口にしながら
“自身(の希望?野望??)のため”に、
費用の捻出から送迎、その他に至るまで、張り切ります・・・。
しかし、
わが子(子ども)は、自分でしょうか?
血縁関係があっても
手をかけた自身の教え子であっても
子どもは、自分(あなた)ではありません。
「あれはウチの子です!」
そう言えること
また
「あの子は、あなたの子ですよね!」
そう言われること
“その瞬間”が、親やコーチの喜びなのかもしれません・・・。
でも・・・
その評価をされているのは、
あなたではなく
“あの子” なのです。
親、またコーチは、
確かにその子の成長の中に、関与したのは事実ですが、
繰り返しますが、
事を成した(成す)のは、子ども自身です。
それはつまり・・・
あの子は、
自分(親、コーチ)の分身ではなく、
全くの別の人格を持った人間ということです。
この先の人生を豊かにし、
幸せにするのは、
各々(子ども自身)の課題です。
したがって、
今、
サッカーをやって
勉強をして
自己実現するのは・・・
あなたや私(*大人)ではなく
子ども自身なのです。