アレグラン渡部のサッカーの素

愛知県東海市のスポーツクラブ "アレグラン東海” の代表の渡部貴朗が、自身のサッカー観を中心に、スポーツ、教育など気になることを素直に書いていきます!

8時半の男

正直、プロでスタメンを張れる選手とは思っていなかった。後半30分以降に出てゴール前にどんどん突っ込んでいく役割。スーパーサブのイメージで獲得しました。ナイターの試合が午後7時キックオフとして、野球の抑え投手ではないけど“8時半の男”ですね」

 

これは、現在サッカー日本代表不動のフォワード選手が、プロ入りする時に受けた、スカウトの方からの評価でした。

 

その選手こそ・・・現在イングランド・プレミアリーグ、レスターに所属する岡崎慎司選手です。

 

滝川二高でプレーしていた岡崎選手は、卒業後、そのままプロサッカー選手の道を歩み始めました。

 

岡崎選手の日本でのプロキャリアのスタートの直前、(高校卒業時)地元ヴィッセル神戸清水エスパルスの2クラブから声を掛けられたそうですが、「レベルの高いところでプレーしたい」という本人の意向から、清水入団を選択したそうです。(*清水は現在J2ですが、オリジナル10の内の1チーム)

 

清水加入当時の監督による評価は、「FW8人の中で8番目」であったようです。

 

実は、高校進学にあたっても同じようなことがあったそうです。

 

お兄さんの背中を追うように、滝川二高を志望したのですが、

高校サッカー界の名門校でレベルも高かった滝川二高を勧める指導者はほとんどいなく、

セレクションを受けた際、当時の監督に「3年になってもレギュラーになれないかもしれないぞ」と言われたそうです。

当時の滝川二高は、AチームからEチームまであり、実際に岡崎選手は入学してしばらくはEチームに所属していたそうです。

 

岡崎選手は、取材で当時の心境を次のように語っています。

「サッカー部に入った頃は、環境になかなか慣れませんでした。自分が他の選手よりも劣った状態だったと認識していました。レベルの高い所に入るので、ある程度は覚悟をしていたんですが・・・」

「苦しいときはありますよね。試合に出られないときとか。どうやったら試合に出られるようになるんだろうと悩んだりしましたね。中学までは順調に試合に使ってもらっていましたから。ただ逆に、一番下のグループから這い上がって上のグループに昇れたら、『絶対に自信になるだろう』とは考えていましたね

また・・・

「俺は、頭が悪いなりに考えてやったんですよ」と謙遜しながら、

そのときそのときに、“自分の課題を克服するため”に練習でも『考えてプレー』しました。1つひとつ課題をクリアーして、『これは上手くなっている』とわかるんです。1年生のときに足りなかったのは、フィジカル的な力強さです。相手に簡単にボールをとられるのは、高校生のスピードとか自分より体が大きい選手に慣れていなかったから。環境に慣れればやれると思っていました」

 

現実に、EチームからAチームに上がり、高校3年生はキャプテンとしてチームを牽引。

 

清水入団後は、定位置とは異なるサイドバックボランチで起用されました。

へそを曲げたり、腐ったりしてしまいがちな状況ですが・・・岡崎選手は違っていたようです。

当時の指揮官の(現ガンバ大阪)長谷川監督は、

「どのポジションをやらせても一生懸命やる。何が足りないか分かって、オフの間にもトレーニングしていた。何に対しても一生懸命で、どこで使っても期待以上。ああいうキャラクターはどこでも受け入れられる。あそこまでメンタルが強い選手はなかなかいない。入団4年目か5年目の時に“俺がおまえに教えることは何もねぇ”と言ったよ」と取材の記者に答えています。

 

入団から4年目の2009年に、リーグ戦全34試合を含め公式戦41試合に出場。

Jリーグアウォーズでは、清水からは10年ぶりとなるJリーグベストイレブンに選出されます。(*優秀新人賞も受賞)

 

2011年にいよいよ海外移籍。

ドイツブンデスリーガVfBシュトゥットガルトを皮切りに、1.FSVマインツ05と両チームで活躍。

今シーズン、世界中で約10億人以上に視聴され、世界最高峰レベルのリーグの一つであるイングランド・プレミアリーグのチームで、2トップの一角としてプレーしました。

 その岡崎選手が所属するレスター・シティFCは、(現地時間)5月2日、ついにプレミアリーグの王者に上り詰めました。

 

諦めない姿勢、工夫、そして努力。

正にこれが岡崎選手の真骨頂です。

 

「成長する人」とは、どのような人なのか?

「日本人らしさ」とは?

岡崎選手から、改めて多くのことを学びました。