敢えて問います、「サッカーとはスポーツとは?」❸
「日本代表が既に帰国しているにも関わらず、
採り上げるネタが古過ぎる・・・」
との意見もある中、
この件を私は真剣に考えたいと思っています。
7月8日、
ローカルテレビ局制作のタレントK氏の冠番組の
ある情報バラエティ番組。
番組内では、
このたびのサッカーW杯が採り上げられ、
「物議を醸した出来事」
として、
6月28日のグループリーグ最終節のポーランド戦で、
日本が負けているにも関わらず、
時間を稼ぐためにボール回しをしたことを
出演者で談義しました。
その中では、日本サッカーのレジェンドプレーヤーの
「勝ちにこだわったやり方だった。大きな日本の財産になった」
というコメントも紹介され、
前出の(番組メインの)K氏は
「私は〇〇さんの意見に賛同します」
と、ボール回しに賛成との立場を見せました。
反対派として、
お笑いタレントM氏のコメント、
「ガンガンいってほしかった。負けたとしても日本かっこいいと思える」
という言葉を紹介。
そのコメントにK氏は
「高校野球やないねんから。
ここはやっぱり戦い方。
汚いとかいっても進まないといけないわけですから。
これはMさん、ちゃいますよ」
と述べました。
・・・
これに対してネットでは
「“サッカー知らない人”は、
単純に点が入る気しないから『つまんねーな』
て思ったんじゃん?」
といった意見に代表されるように
逆に
『あのボール回しを、“サッカーを理解している人間”は評価している』
といったコメントが多数寄せられていました。
「あの試合の“手段云々の議論”より、
16強クラスと対戦することが何より大事。
時間稼ぎなんて忘れて良し!」
といったニュアンスの意見が大半を占めていました。
さらには、
いろいろなTV番組にもご出演で有名な某市の前市長が
試合後の6月30日、
ご自身のツイッターで、このボール回しについて自論を述べていました。
「ポーランド戦の最後のパス回しを批判するのは頭の悪い証拠」
と切り出し、
「緻密な状況分析による最高の戦術。そして指揮官西野監督の勇気と胆力」
と、
『論理的な考え方に基づいた監督の“英断”』と称賛の言葉を送っています。
・・・・・・
表現の自由があるとはいえ、
SNSを通じての罵倒は、
(*最近では“disrespect”にかけて、「ディスる」とも言うそうですが…)
文字を見ていますと、とても不快感を覚えます。
某国大統領なども、この手の発言が目につきますが、
子を持つ親としては、
大の大人の、
しかも選挙で選ばれた『国や街の代表の乱暴極まりない言葉』に
憤りを感じます。
(この件につきましては、また別の回に・・・)
さて、
「終わったことを根に持って」
と考えていらっしゃる方・・・
よく考えてください。
“W杯があり、(本大会に)日本が出場した”から
“今回の大会で、日本があの戦略を用いた”から
この論議がなされているのです。
私たちが子ども時分の、
日本サッカーが不毛な時代
日本がW杯にも出場できなかった時代
には、
このような論議すら行われなかったのです!
ですから私は
このような論議は、
日本サッカーが来るべき所に来た証・・・
ここで皆が真剣に考える、必要な論議だと思うのです。
間違いなく
サッカーとは❓
スポーツとは❓
を考える、
“よいきっかけ”
になります。
ですから、
「もう終わったこと」
には決してしたくないのです。
この国の
「サッカー文化」
「スポーツ文化」
をつくりあげる大きなチャンスなのです。
日本が本当の意味で豊かな国になるためには、
これから大人になる子どもたちが
良質なスポーツに触れ、
その中で成長していくこと
だと私は考えています。
そう考えますと・・・
このたびの大人たちの浅はかな考えや発言には
落胆させられるばかりです。
ここで、今一度考える必要があります。
“グループリーグ突破”
“(日本サッカー史上初の)ベスト8”
を目指して
・・・
は、良いのですが、
それが、
サッカーの
ワールドカップの
本当の価値や意味なのでしょうか?
また一方、それが実現できれば
観ている側も全て納得できるものでしょうか?
これは先回も書きましたが
人間は、一時の勝ち負け、入賞、メダルなどに執着してしまいます。
しかし、
W杯を想像してみてください。
「前々回王者のスペインは?」
「前回王者のドイツは?」
・・・
あの時、あれほど世界を驚かせたのに
・・・・・・
時間が経てば、もう“過去”になっています。
皆、次の王者(次の世界基準)を探し始めているではないですか。
実に儚いものです・・・。
人間は、つくづく単純だと感じます。
殊更、最近の日本人は・・・。
例えば、前回の五輪。
開幕前には
「リオは大丈夫か?」
治安、ジカ熱、運営などに不安を煽る大合唱だった日本のメディアも、
開幕したと同時に「メダル」の大合唱を始めたことを覚えていますか?
大会が始まれば、(予想通り)誰もが
メダル、メダル、メダル・・・。
「メダル至上主義」。
ドーピング問題の真の根源も、
実はここにあることに気づいていません。
オリンピックといえば
「オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」
という言葉が有名です。
この言葉は、1908年のロンドン大会、
当時の社会情勢の関係で英米両チームは非常に険悪なムードが漂っていました。
そのような中の日曜日、
礼拝のためにセントポール大寺院に集まった選手を前に、
主教が述べた戒めの言葉だそうです。(*諸説あります)
そして、この話に感銘を受けたクーベルタン男爵が晩餐会で紹介し、
それをきっかけに世界中に広まりました。
近代オリンピック創設の父と呼ばれるクーベルタン男爵は、
その第4回の夏季オリンピック(ロンドン大会)において、
以下のような演説を行いました。
「“オリンピック競技大会で重要なことは、
勝つことではなく、参加することである”
と述べられたのは、まことに至言である。
人生において重要なことは、
成功することではなく、努力することである。
根本的なことは、征服したかどうかにあるのではなく、
よく戦ったかどうかにある。
このような教えを広めることによって、
一層強固な、一層激しい、しかもより慎重にして、
より寛大な人間性をつくり上げることができる」
(『近代オリンピック100年の歩み』より)
さらに、
「オリンピックが平和の祭典でない限り、オリンピック自身が存在する意味がない」
という言葉も有名です。
国際オリンピック委員会(IOC)を創設したこと・・・
その目的や理念は、
スポーツによる世界平和構築であり、
当時の帝国主義が支配する世界の流れに一矢を投じることでした。
死力を尽くして戦った後に残るもの・・・
それが友情です。
全力を出し尽くした者同士だからこそ
分かり合えるものがあります。
その場が、例えばオリンピックなのです。
では、今大会の日本 対 ポーランド・・・
タイムアップ後、何か釈然としないものがありましたが
選手たちはどうだったのでしょうか?
真の友情は芽生えたのでしょうか?
観ている皆さまの感想は、いかがでしたか?
メダルや順位には、もちろん価値があります。
それはオリンピズムの
「より速く、より高く、より強く」
というモットーが表現する
『頂点を目指して、一歩先に行く努力』
を称えることでもあります。
その(努力した)結果を称賛することがなければ
オリンピックは成立しないともいえます。
ただ問題もあります。
例えば、頻繁に報道されています国別メダル数。
この一覧が当たり前のようにメディアで表現されていましたが、
国際オリンピック委員会(IOC)のオリンピック憲章では
実際には、次のように記載されています。
第57条 入賞者名簿
国ごとの世界ランキングを作成してはならない。・・・」
とあります。
オリンピック憲章と現実(の報道)が、
乖離していることが解ります。
五輪やサッカーW杯が盛り上がるポイントは、
自国の競技者やチームの活躍であることは紛れもない事実です。
このことをオリンピズムも否定はしていません。
大会そのものに参加はできない国民(私たち)は
世界大会というオリンピックの舞台で頂点を目指す競技者やチームと
同化する体験ができます。
つまり、
「選手たちとともに自らも五輪に参加ができる」
のです。
そして、
選手やチームが勝ったにしろ、負けたにしろ、
その場で得た体験を同化した個人(私たち)が疑似体験することによって、
何かを得ることもできます。
だから・・・
自国の競技者をTVの画面を通して
一生懸命応援するのは、
ごくごく普通のことでもあります。
ただ、それが時にあらぬ方向に向くこともあるのです。
「ただ勝てば良い」
といった考え方も(残念な考え方の)その一つではないでしょうか。
「勝つことではなく参加することにこそ意義がある」
という言葉は、
ネガティブに捉えられることがあります。
「競争なんだから、勝たなきゃ意味がないだろう?」
「参加する事に意義があるなんて、そんなのはしょせん負け犬の遠吠えだ」
という論調がそれに当てはまります。
が、しかし、
負けたとしても、何か得られる(もらえる)ものがあるのは事実です。
私は、このたびのタイトルを通じて、もう一度問いかけます
「勝利こそ、唯一絶対の価値」
・・・
なのでしょうか?
勝たなければ死んでしまうような状況では、
何が何でも勝つことは、最も重要なことではありますが・・・。
FIFA管轄の国際試合が始まるに先立ち、
両チームがフィールドに入る際、
ある旗とともに競技者は、子どもたちと手をつなぎ入場します。
そして、大きな黄色の旗があります。
この旗は、何を意味するのでしょうか?
つまり、旗のスローガンです。
FIFAワールドカップでは、
フェアプレー・プロジェクトの一環として
『選手達が“子ども達の目の前で”恥ずべき行為をしない』
よう、フェアプレーを約束する意味からも
1998年大会からエスコートキッズを起用しています。
さらに、
JFAサッカー行動規範では、以下の記述があります。
〔最善の努力〕
どんな状況でも、勝利のため、またひとつのゴールのために、
最後まで全力を尽してプレーする。
「ひとつのゴールのために」という文言があることから、
今回の日本代表の行為や監督の方針は、
JFAの行動規範に反してはいないでしょうか?
さらには、
FIFAのサッカーの行動規範(*和訳)にも
同様のことが盛り込まれていることをご存知でしょうか。
☝FIFA発行の原文(英語)ですが、翻訳機能を利用していただきますとご確認いただけます。
・・・
『最後のホイッスルまで、勝つためにプレーする』
ということがまず第一に記されています。
まとめます。
昨今、日本も世界でも今では成果主義が導入され、
何かにつけて、結果を求められる時代になりました。
その中で、いつしか勝ち負けにこだわる人が増え、
お金や名誉、出世など、人間が勝手に作った尺度に基づき、
「勝ち組」「負け組」などを決めつけるようになってしまいました。
一方、一昔前の日本は、
「努力が大切だ」
「誇り高く生きよ」
ということがよく言われていました。
このような言葉は
「昭和だ」
「時代遅れだ」
と揶揄されることが多々あります。
しかし今一度、
日本人はこの言葉を思い起こすべきです。
努力したから、頑張ったからといって、
自分の思うような結果が必ずしも出るとは限りません。
(どちらかと言えば、上手く行かないことの方が多いように感じます・・・)
しかし、
人生において最も大事なことは、勝つことではなく、
困難の中で努力する過程において成長する
自身の人としての成長です。
名誉や肩書はもちろん、
お金もメダルも、
残念ながら私達がこの世を去った後、
誰も持っていくことはできません。。。
唯一、持っていけるのが・・・
私達自身そのものなのです。
私達がどのような人間なのか、
それだけが死後においても問われるわけです。
重要なポイントは、
自分がどれだけ努力したのか、
どれだけ真剣だったのか、
毎日精一杯生きているのか、
それによって人間的にどれだけ成長したのかが、
私達の生涯において問われているのです。
したがって、
スポーツ大会で
「決勝トーナメントに進出した」
「メダルが取れた」
「優勝した」
・・・
さらに日常では
「テストで100点がとれた」
「志望校に合格できた」
「希望する就職先に入れた」
・・・・・・
それらが実現できる(実現できた)ことは
もちろん素晴らしいのですが、
“人生そのもの”においては、
さほど重要なことではありません。
大事なことは、
『今置かれている場所で、
“全力投球”できているのか
どれだけ“真剣に努力”しているのか』
ということ。
これらが、
私達の人生において問われている真の課題なのです。
観る側としては、
それを克服する瞬間を観た時に
大きな感動を受けるのです。
“それ”こそが、
『サッカーの魅力』
『スポーツの素晴らしさ』
なのです。
なぜ、このたびのボール回しが
国内外からもこれほど論議を呼んだのか?
上っ面ではなく、その真相の部分を捉えないといけません。
どんな状況でも、
勝利のために、
ひとつのゴールのために、
最後まで全力を尽してプレーする
・・・
この観念こそが
日本のサッカー、スポーツ文化の向上のためには、
絶対必要なことなのです。