人が人として正しく育つプロセスとは
正に今日、
数時間前のことです。
日常のたわいもない出来事から
書き始めます。
わが子が
妻(※母親)に、
次のような質問をしました。
スマホで
某アプリを検索し、
家事をしながら音楽を聴き始めた妻。
♪ 音楽スタート ♬
それを横にいた長女(☚中学1年)が、
「その歌好きなの?」
・・・
私は、
思わず絶句しました。
Why?
なぜ??
その(娘に対する)疑問の理由は・・・
簡単で単純な
理由です。
「聴きたい曲を検索して聴いている人に
『その歌好きなの?』
はないでしょう!」
好きな歌を検索
↓
曲がスタート
↓
・・・なぜその曲を聴いているかのか
「好きに決まってるだろ!」
ということ。
でも、
娘の言うこと(考えていること)も
分からなくはありません。
(☝「解る」ではなく、“敢えて”「分かる」にしています)
「ただそれを、
聞きたかった、尋ねたかっただけ
だって!」
こと。
人間、
疑問に思うことは
大切ですよね。
そのような時(疑問を持った時)に
質問することも
大切なことですよね。
でも一方、
それって
わざわざ聞かなくてはいけないこと?
という問いもでてきます。
だから私は娘に言いました。
「それって、
わざわざ 聞くこと?」
思春期の入り口の娘です。
当然、
拗ねていましたね。
正に・・・
「ただ聞いただけじゃんね」
という気持ちだったのでしょう。。。
でも・・・
それを聞くこと自体、
おかしな(不可思議な)こと
なのです。
で、
改めて思ったのです。
「子どもは
“なんとなく”
の行動や言動が多い」
ということ。
そして、
「それ(その自分の整合性のない言動や行動)を
指摘されたら、反射的に拗ねる」
ということ。
・・・
でも、
これって、
子どもだけでしょうか❓
〈 えっ?〉
大人も(大人にもなって)
訳もなく発言したり
訳のない行動したり
する人
・・・
それについて、
何か言われたら
(仮に、自身のことを少しでも咎められたら)
“逆ギレ”
する人
・・・
多くないですか?
やはり、
この時代のせいでしょうか?
自由を重んじる風潮のせいでしょうか??
(自分が)
そんなことを言っていたり
そんなことをやっていたりするのって、
“大人げない”
と考えられない、省みることができない、
自分の姿を鏡で映すことができない大人
“子どな” が、
身近なところで増えてきたように感じます。
「子どもの時だから仕方がないよね」
・・・
とか
「子どもに言ったら拗ねるから」
など、“単純な理由”で、
子どもに積極的な関わりが減った最近の風潮、
そこが本当に気になります。
「その子たちが
この調子で大人になったらどうなるのか?」
といったことを案じます。
大人になったら
当然、
放っておかれます
よね。
社会でも
職場でも。
「あの人、少し××だから・・・
触らない(近寄らない)ほうがいいよね」
という感じで、放置されて・・・。
だから
▶変な癖を持った
▶わがままな
▶子どもみたいな
大人
・・・
巷に増えているように感じます。
ところで、
みなさんは、
「そんな人(子どもみたいな大人)と一緒にいたいですか?」
一方、
「あなたと一緒にいたい人って、どんな人ですか?」
それ(※あなたの傍にいて欲しい人)は
・・・
『その基準は
誰も、ほぼ一緒』
のはずです。
◎自分のことを解ってくれる
◎正しい助言やアドバイスをしてくれる
ような人
そして、
◎余計なことや傷つけるようなことは、
言わない、やらない
人ではないでしょうか。
本当に傍にいて欲しい人を望むのは、
わがままなことでしょうか?
実はみんな
“人格者”を求めている
はずです。
じゃあ、
自分が
その“人格者”になりませんか?
人格者には
大人になってからもなれますし、
目指すべき道です。
ただそれには・・・
やはり子どもの頃、
つまり、
人格形成している時期に
“人格者”に向けての歩みを
少しずつ確実に進めていくことが
最も重要なこと
ではないでしょうか。
人が生きていくうえで
とても重要となる
「常識と非常識」
・・・
それは、
一体いつ覚えるのでしょうか?
大人になったら
自分には
どっぷりと
『自己』
という大きなものが出来上がっています。
だから
ことあるたびに(“子どな”の人の会話には)
「だって~」
が、多いんです。
それは、自分に
『負の癖や観念が取り付いている証拠』
なのです。
その状態で
自分を変えるなんて、
とてつもなく厳しいことだということが
容易に想像できますよね。
だから
もっと前に・・・
子どもの頃に
「誰(どのような大人)に会うか」
が大切なこと
なのです。
その誰かとは
・・・・・・
まず、
親、
そして、
先生(コーチなど)。
大人から
“正しさ”を学ぶ
のです。
繰り返しますが、
人は勝手に
正しく成長することなど
ありません。
サッカーも
全く同じです。
人間は残念ながら、
「そもそも自己中心的な生き物」
なのですから。
今の世の中は、
子どもを
自由に
のんびり育てる
風潮がある中・・・
一方、
大人は子どもに
毎日の如く、習い事をさせたり
「いろいろ詰め込むことは好き」
なようで・・・
あとは
『良い教育を与えたから
子どもは勝手に良い大人になる』
と、思い込んでいます。
しかし、
いくら頭でっかちになろうと、
自身の変な癖がもとで
将来、自身のそれに悩み、苦しむのは・・・
本人(子ども自身)
なのです。
詰め込むだけで
他人任せ、その子任せ
・・・
で、
その子は
「将来、幸せになんてなれない」
と、私は今までの経験から
それを知っています。
人育ては
正直、大変です。
でも・・・
大人が時には
泥だらけになり、
口酸っぱくしながらも
子どもに向き合って
そして、
子を想い、子と泣き笑いを共にした
“そのプロセス”こそが大事で、
それを経て経験したものが
将来、
『その子を助ける本当の力』
となる
のです。