アレグラン渡部のサッカーの素

愛知県東海市のスポーツクラブ "アレグラン東海” の代表の渡部貴朗が、自身のサッカー観を中心に、スポーツ、教育など気になることを素直に書いていきます!

勝利よりも大切なもの

リオ五輪が開幕して4日目に入り、

メダル獲得のニュースも、続々入ってくるようになりました。

 

オリンピックで大きな注目は、メダル争いです。

各国が威信をかけて競技を行い、一番輝く“金メダル”を狙います。

そのスポーツにかけるアスリートの熱い気持ちには、

観ている側も自然に引き込まれるものがあります。

頂点に立った者(チーム)のみが、手に入れることができる金メダル。

そのメダルは、計り知れないほどの価値があります。

 

しかし一方で、次のような言葉もあります。 

 

~ オリンピックで重要なことは、勝つことではなく、参加することである。

人生で大切なことは、成功することではなく、努力することである ~

 

この言葉は、フランスのクーベルタン男爵の言葉として、後世に広く伝わっています。

(*実は・・・この言葉を最初に発したのは、クーベルタン氏ではありません)

これには、とても深い背景があります。

それにはまず、クーベルタン氏の生い立ちから、たどる必要があります。

「近代オリンピックの父」と呼ばれるピエール・ド・クーベルタンは、

1863年1月1日にフランス・パリの芸術家の貴族の家に生まれています。

当時の貴族階級の家では、子息は士官学校に進むのが一般的で、

クーベルタンも、17歳でサンシール士官学校に学び、

ゆくゆくは軍人か、政治家になることを期待されていましたが、

その道は彼を満足させるものではなく、次第に教育学に興味を示すようになります。

当時のフランスでは普仏戦争(*1870~71)の敗戦を引きずり、沈滞ムードが蔓延し、

とりわけ若者たちの心には、“精神的な弱さ”が根付いてしまっていました。

この状況を打開するには、「『教育』こそが、そのキーになる」と考え始めました。

そして、士官学校を退学したクーベルタンは、

まずは、パブリック・スクール(公立学校)を視察するために渡英します。

ただこのとき“熱心な愛国主義者”であった彼は、大のイギリス嫌いだったそうです。

しかし、いざイギリスに渡りますと、イギリスの学生たちが“積極的”に、

かつ“紳士的”にスポーツに取り組む姿を見て感銘を受けて、

たちまち「イギリス贔屓」になってしまったそうです。

そこでの実際の経験から、

「服従を旨として知識を詰め込むことに偏っていたフランスの教育では、

このような青少年は育たない。即刻、『スポーツを取り入れた教育改革』を

推進する必要がある」と確信したそうです。

当時、勢いを増していたイギリスに比べてフランスは、戦争に敗れ、自信を失い、

国際的に地位も低下していました。

「スポーツこそが規律を重んじ、心身ともにバランスのとれた若者を作る」と考え、

クーベルタンは、フランスの教育界にスポーツ活動を導入することに奔走します。

 

「フランスの古い教育体制を改革する」

―この理想を実現するために活動を始めたクーベルタンは、

その後も米国や欧州の教育現場を精力的に視察。

そして、周囲の国との交流を深めていく中で、クーベルタン

古代オリンピックの果たしていた平和実現への役割」にたどり着きます。

古代オリンピックの期間中には、“各国が戦争を中断”していた事実を知りました。

古代オリンピックを現代に復活させることが、

スポーツによる国際交流を生み、世界平和に繋がっていく・・・」

このことを今から約120年前の1892年、ソルボンヌ大学の講演で、

ルネッサンス・オリンピック』として提唱しました。

しかし、このクーベルタンの「近代オリンピック復興」の呼びかけに、

周囲の目はとても冷ややかだったそうです。

ただ一方で、これは仕方がないことでもありました・・・。

当時の人々は現代に生きる私たちとは異なり、オリンピックそのものを見たことも、

聞いたこともなかったため、理解やイメージができなかったようです。

 

しかし、クーベルタンは諦めませんでした。

その翌年1893年の米国・シカゴの万国博で、教育会議に出席したクーベルタン

オリンピックの理念を宣伝します。

その翌年のパリでも万国博が開催され、そのスポーツ競技者連合の会議の場で、

クーベルタンは高揚したイベント気分に便乗するかたちで、オリンピック復興計画を

議題に挙げました。すると満場一致で可決。

ついに、近代オリンピック開催への扉が開かれます。

第1回大会は、1896年、「古代オリンピックの故郷オリンピアのあるギリシャ」で

開催することも採択。

また同じ会議で、古代の伝統にしたがい、

大会は「4年ごとに開催」すること、

大会は世界各国の「大都市での持ち回り開催」とすること、

大会開催に関する最高の権威を持つ国際オリンピック委員会IOC)を設立すること、

など、近代オリンピックの基礎となる事柄が決定されています。

ちなみに今では定員115名で構成されているIOC委員ですが、

そこで決定したIOCの委員は、わずか16名だったそうです。

 

ただ、オリンピック開催にたどり着くまでは、まだまだ難問が控えていました。

当時のギリシャは、国内政治の不安定、政党間の対立、政党と王室との不仲、

緊縮経済に対する民衆の不満などが強まっており、

オリンピック開催への資金ねん出の面には、かなり多くの課題が残っていました。

さらに、労働者ストライキが勃発し、治安が慢性的に不安定で、

オリンピックの認知度不足から、開催は一時暗礁に乗り上げたそうです。

ギリシャのトリコーペス首相からは、実際に

アテネで開催するのは非常に厳しい状態だ」

という手紙が送られてきたそうです。

そこでクーベルタンは、まずギリシャ国王のゲオルギウス1世の全面的な協力を

とり付け、次にギリシャのスポーツ団体である“ザペイオン協会”との交渉で、

開催のための費用面への協力を得ることに成功。

また、エジプト・アレキサンドリアに住む富豪アベロフ氏から、

巨額の寄付を得ることにも成功。

 

そして、第1回近代オリンピックは、1896年4月ギリシャで開催。

陸上競技、水泳、体操、レスリング、フェンシング、射撃、自転車、テニスの

8競技43種目、14カ国から245名の参加によって、無事開催されました。

ウエイトリフティングは、当時は“体操の種目の一つ”として実施されていました。

 

その後、クーベルタンは1897年から1916年まで、

自ら第2代のIOC会長を務めます。

 

さて、本題の

「オリンピックで重要なことは、勝つことではなく、参加することに意義がある

という言葉ですが・・・これはクーベルタンIOC会長在任中、

1908年の第5回のロンドン大会期間中のことです。

当時の時代背景から、英国と米国はお互いに対立。

チーム同士、険悪なムードが広がる中、日曜礼拝に来た両チームの選手に対し、

セントポール大寺院のペンシルヴァニア司教が、戒めの意味を込め言葉を発しました。

その言葉に感激したクーベルタンが、英政府主催の晩餐会でこの言葉を引用して用いた

ために、その後、大きく広がっていきました。

クーベルタンは、こう言ったそうです。

「人生で重要なことは、勝つことではなく、努力すること。

相手を打ち負かしたことではなく、いかによく努力したかが最も大切なのである。

“人生は闘うがゆえに美しい”」

 

スポーツの醍醐味、

スポーツをすることの意味、

それは、“結果の優劣ではなく”・・・

スポーツをする“その過程にある” ものと思います。

 

一方でそれを忘れて、

勝敗のみを追求すれば・・・、

“スポーツの素晴らしさ”、また『その目的』は、

失われてしまいます。

 

高い教育理念から端を発した近代オリンピック。

4年に1回の大会の中で、メダル以外の素晴らしいところも見逃したくないですね。

 

 

◎アレグランのホームページにも関連記事を掲載しています。

www.alegrun.org

記事は随時更新してまいりますので、ご覧いただけましたら幸いです。